2014年6月28日土曜日

柿喰う客『へんてこレストラン』@北とぴあ 観劇

東京都北区にある北とぴあにて柿喰う客の『へんてこレストラン』を観劇。6/28(土)17:00~の回。

内容は宮沢賢治の『注文の多い料理店』を中屋敷法仁氏が舞台用にアレンジしたもの。
また本作は「こどもと観る演劇プロジェクト2014」の一つであり、通常の演劇では入場を規制される未就学児童も観劇可能で、上演時間も45分と短くなっている。
ストーリーは知られている、かつこどもの観劇を前提とする中でどんな演出がなされるのか、期待して観た。

柿喰う客の作品は年始頃に『世迷言』を観たのみ。
それがとにかく衝撃的で、観劇でいちばん感動した体験はあの時だったかも。


で、今回。
こども向けだと若干表現も甘くなるかな~と思ったが、全くそんなことは無かった。

言葉や動きのスタイリッシュさは以前に観た時の印象と変わらなかったし、題材のストーリーよりもどんな表現が次に出てくるのだろうという期待続きであっという間に終わってしまった。最前の桟敷に座っているこども達(3~5歳ぐらい?)も終始見入っていて、楽しんでいるように見えた。


中屋敷法仁氏のアフタートーク(毎回やっているらしい)でも面白い話が聞けた。

「リズムも目配せもキューも無い中で、複数人の役者が同時に発生をしたり動いたりするのは、いったいどうやっているのですか?」

柿喰う客がおそらくいつもやっている表現の一つに関する質問。これに対し、
「以前はリズムに合わせるとかブレスするタイミングで合わせてたりを考えていたけど、いつの間にか長く一緒にやってきた役者どうしで、自然にできるようになっていた。どうせできるならこっちの方が表現としてインパクトも大きいし、じゃあ採用しよう、と。どうしてできているのかもよかわかってないから他の人に教えたりできない(方法論化できていない)けれども」 (うろ覚え)
とのこと。
何も無いところで合わせる、っていうのはバンド演奏でもまれにあるが、やっぱり難しい。というか狙ってやってる様な演奏は殆ど知らない。
でもその分インパクトがある。これを完全に計算して組み込んでいるからやっぱり"凄み"がある。

他にも能や狂言から表現を取り入れているという話や、"見える言葉、聞こえる身体"(うろ覚え)という柿喰う客のモチーフのようなワードも聞けた。
後者は成る程、柿喰う客にぴったりの言葉だな、と思った。

今後の公演も見逃さないようにしたい。

2014年6月15日日曜日

『BLUE GIANT』で定義される"ジャズ"と、明確に区分される人々

ビッグコミックススペシャルで連載中の音楽漫画、石塚真一『BLUE GIANT』1~2巻読んだ。
世界一のジャズプレイヤーを目指す高校生、宮本大のストレートでパワフルな青春・成長譚。面白い。

"ジャズ"の定義

読んでまず感じたのは、作品世界における"ジャズ"が明確に定義されていること。
良く分からない、難しい、オトナの、おしゃれな… 一般的によく聞かれるジャズへの偏見を、"ジャズ"を知らない側の人間に言わせた上で、「みんなそう言うけど、ハゲしくて、自由な音楽が"ジャズ"なんだ」と大が一蹴する。

そう、「ハゲしくて、自由な音楽」。これがこの世界における"ジャズ"の定義、本懐だ。

二分される登場人物と大

『BLUE GIANT』の世界ではこの本懐をわかっているか否かで、登場人物の立ち位置が明確に分断されている。
そう、この世界の登場人物は"ジャズ"を知っている人と知らない人に完全に二分されているのだ。
もちろん主人公の大は前者に属する。

ただし、大はその中でも特殊な能力を持っている。演奏によって"ジャズ"を知らない人間に"ジャズ"を知らせる、伝える力だ。

"ジャズ"を知っている人は大の才能(本懐を理解し、表現できる能力)を見抜くし、知らない人(友達の周平、同級生の女の子)は大によって本懐に触れさせられ、"ジャズ"を感覚で理解し、大たちのいる領域へと踏み入れることになる。

このシーンこそがこの漫画の最も"熱い"ところで、漫画的にも力を込めて描かれている。
音の出ない漫画でその熱量、才能、感動をどう描くかがやはりポイントで、今のところかなり良い。

最初から大の才能は顕在化しているし、コミックスの巻末に挟まれる後日譚から既におおよその結末は読者に知らされている。
それでも、大の才能や彼を取り囲む環境がどんな過程を経るのか、どのような人間を、ジャズを描くのか、という疑問が好奇心を惹くし、今後の展開が楽しみ。


1点、今後の展開で気になるのは、大たちの"ジャズ"以外のジャズは描かれないのだろうか、ということ。そもそも「ジャズとは何か」という問いに正解は無い。どのような解釈も自由なはずだが、もしこの漫画で異なる定義のジャズを信じる人々が描かれない、または登場してもこの物語からは消えていく、言い換えれば「切り捨てられていく」のであれば残念だ。

そういった人々とぶつかっていき、相対化することで大たちの信じる"ジャズ"がより熱く、激しく描くことができるはずだから。

五反田団『五反田怪団 ザ・ベスト』@アトリエヘリコプター 観劇

アトリエヘリコプターにて五反田団の『五反田怪団 ザ・ベスト』を観劇。6/8(日)19:00~の回。

『五反田怪団』シリーズは毎夏に行われ、今年で10年目?になる人気シリーズであり、今回はこれまでの怪団の中でも選りすぐりの怪談を集めたザ・ベスト、とのこと。
僕自身が演劇を観始めたのは昨年からなのだが、五反田団は今回で3回目になる。毎度面白いので追いかけている。

どこまでが演技か

毎度見ていて凄いな、と思うのが「どこまでが演技でどこまでが素の振る舞いなのか」その境界線を観客に意識させないところ。
台詞を噛むことや言いよどみ、手を組み直したり髪に触れる行為。そうした言葉・振る舞いの中でもノイズに相当するものをあえて(?)セーブしないことでリアリティが増すし、それらを含めて劇として成立させているのはやはり計算だろうか。
このように身体のノイズで演技の境界をぼかす手法は全ての劇に有効だとは思わないが、今回の怪談やコメディにおいてはとても有用だと思う。

ユーモラスであることと笑わせることは違う

また、五反田団を観ていて思い出したのは町山智浩氏のこんな言葉。
ユーモラスに撮ることと笑わせることはまったく違う。ユーモラスな雰囲気に撮るだけではかえって寒くなるから、きちんとギャグを入れなきゃいけない
日本の監督はよくココを間違えるからダメだ~というような話。

邦画のダメさみたいなのはよく知らないので置いといて、確かに演劇においてもそういう勘違いや寒さみたいなのを感じることはあるし、それがあると自分と作品との距離が一気に開くのを感じ、冷めてしまう。
この観点で五反田団を観てみると、きちんとギャグを入れてきてくれるな~と思う。笑いどころに困ったまま白けることもなく、安心して笑える。こういうのがコメディだと思えるし、人にも薦めたくなる。


この演劇を観てなんとなく自分も怪談を語りたくなって、『ザ・ベスト』の中からいくつか拝借して友人に話ったら割りと盛り上がったのもあり、行って良かった。

2014年6月5日木曜日

本日のGot to be real

小学区の時にリンダって呼ばれてた女の子に唇が酷似しているCheryl Lynnだが、今日は32回ぐらい彼女の『Got to be real』を聞いた。「今日何してた?」と尋ねられたら間違いなく「Cheryl Lynnの『Got to be real』聞いてた」って答えると思うので、そういう状況でこそ"本日の1曲"の名を与えていきたい。







ベースラインが骨になっていて、聞きっぱなしでも飽きない。

Victor Wooten的に言うと、"本物のグルーヴには飽きが来ない"。



"グルーヴ"を聞く!!